岩と家(第二段階)

c0236929_1572452.jpg

岩の表現が難しいというのが分かってきた。面取りをしていくのはさほどでもないし、色彩におきかえていくのもまずは無難に進めていけるだろうが、そういった分析的な捉え方ではなく、本質的な存在にまで押し詰めていきたいのである。

美術の二大要素は形と色である、そしてこの二つをああでもない、こうでもないと組み合わせながら一枚の絵画を仕上げていくのが画家の仕事であるが、分析的に理解した物と物の関係を総合的に一枚の平面の中に組み立てていく。

そこまではどの画家も一様に取り組んでいく仕事の仕組みなのであるが、さてその先きはとなると皆それぞれの欲求が違ってくる。一般にはそれを個性とよんでおいていいのだろう。同じ主題、同じモチーフを使っても種々、様々な絵が出来てくる。

同じ岩を描いてもそうだろうと思う。私に一番身近に思い出されるのはなんといってもオルセー美術館のクールベの絵である。エトルタの海岸だけではなく、森の中の鹿を描いた作品のちょっとした小石にいたるまでのレアリティーにひかれるのである。

クールベのナイフを使ったような荒々しい表現の物質感などはまさしく西洋絵画だと納得させられる。時間と空間をもとにした存在感である。しかし私には近年、どうもこの存在感から離れていこうという欲求が強く働くのである。

# by papasanmazan | 2012-03-20 01:51 | 風景画 | Comments(0)

農家とヴァントゥー山(完成)

c0236929_19485493.jpg

真冬に始めたこの小さなサムホールの絵も相変わらずの時間の掛かりようで、周りが早春になってようやく完成した。下手をすると制作を来年まで持ち越すところであった。もう少し楽に仕事がはかどらないものかと常に思うのだが、一つには生来の不器用さもあるのだろう。

親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている、というのは坊ちゃんの出だしだが、無鉄砲を不器用に差し替えるとそのまま私に当てはまる。ただその不器用なことについてはもういいかげんあきらめもついたのでグチもいわずに制作するようになってきた。

サムホールくらいの大きさの出来上がりとしてはこの位で良いと思う。ただ構図というようなものではなく、物の選択が甘いと反省する。如何にも絵になりすぎている嫌いがある。よく日本の農家などを如何にも写実的にあつかって郷愁を誘うような絵があるが、ロマンティシズムとセンチメンタリズムとのはき違えだと思う。そして画面はあくまでカラッとしているのが私の理想である。

# by papasanmazan | 2012-03-17 19:44 | 小さな絵 | Comments(0)

岩と松とキャバンヌ(第一段階)

c0236929_18475896.jpg

プロヴァンスの畑などのなかによくキャバンヌ(小屋)が建っているのを見かける。石造りの小さなものだが、農業の道具を置いておいたりするのだろうか、そのほとんどが余り使われているような様子はなく、崩れかかっているようなものもある。

広い空、延々と続く畑のなかにそんなキャバンヌがポツンと建っているのも趣きがある。何年か前にやはり戸外で制作していると、一人の中年のフランス人男性が話しかけてきた。自分はプロの写真家で、キャバンヌを専門に撮り続けているというのである。

あちこちのそんなキャバンヌのことを話していたが、ほとんど崩れてしまった廃屋もキャバンヌと同じ性格だとおもって撮っている、ということだった。なるほどもう打ち捨てられたかつては人が生活していたであろうそんな廃屋も残っている。

岩のまわりに荒々しい松がはえ、その前に今いった廃屋、キャバンヌが姿を見せている、そんな場所がある。大きな道沿いの風景で、車で通る人には慣れっこになってしまっているのかもしれない。その風景をF12号の油彩で始めてみた。

# by papasanmazan | 2012-03-16 18:47 | 風景画 | Comments(2)

早春の丘(第一段階)

c0236929_1956185.jpg

暖かくなって木々の芽も吹き出し,今のプロヴァンスはアーモンドの花盛りである。三月に入るとこの花が咲きだして,急に全体の景色が明るくなり、人の心も軽やかそうである。そういえばテレビのニュースでも海岸沿いで、もう水着姿で日光浴をしている人たちを写していた。

丘の柳や白樺の葉っぱにもうっすらと色が浮かび上がって、景色が若やいでいる。丘のあちこちに家が見えるが、中で暮らす人たちのさざめきまで聞こえそうなで楽しさである。F3号のちいさなキャンバスに始めてみた。

描きはじめは出来るだけ軽く、しかも全体の動きを見極めてリズミカルにすすめていきたい。油絵は重厚だというのはうなずけるが、決して重苦しいものだとはいえないだろう。たとえばヴェラスケスの画面などはどれほど絵の具の層が重なっていっても完璧な透明感を保っている。これをもって西洋の絵画の伝統といえると思う。

# by papasanmazan | 2012-03-15 19:54 | 風景画 | Comments(2)

岩と家

c0236929_21382018.jpg


ずいぶん前から岩を主題にした作品を描いてみたかった,古いところでは北海道の層雲峡を訪れたときや和歌山の鬼ケ城なども描いてみたいと思ったことがある。なぜか岩には惹かれているのだがまだこれといったものは描いていない。

南仏に移っきてからも近くにはネスク渓谷という,これはまた延々と深い谷と切り立った岩が続いている格好の場所がある。特にラヴェンダーで有名なソーの村に近いあたりのネスクの渓谷の岩組みはなんとしてでも描いてみたいと思っている。

いつもの私ならとっくにこのネスクの岩は描いていたことだろう。何故まだ始めていないのかというと,実は私を知る人たちから大反対されているのである。どうも大けがをする危険性が多分にあるというのである。しかもこのネスクで描いたとすると,退がって絵を見たときに恐らく谷に落ちて,まず命はなかろうというわけである。

とにかくネスクだけはやめておけと至上命令である。また私も実にそういった大けがに泣かされてきているのである。で自重して他に岩のある風景を探してみているのだが、いつも制作しているヴナスクの村の,ちょっと隠れたところを探し当てたばかりである。

F10号に始めてみた岩と,その崖の下に建つ二軒の家である。

# by papasanmazan | 2012-03-12 21:34 | 風景画 | Comments(0)

冬のヴァントゥー山(完成)

c0236929_2115166.jpg

ようやく自分でも納得できるところまできたのでこれで一応完成ということにしておこう。この絵はF12号(60,6×45,5㎝)であるが、先日完成したF3号のマザンとヴァントゥーとほぼ同じ場所で描いたものである。

前のF3号のものよりは主観の強いものになったかもしれない。私自身は自分のものを打ち出そうとか,主観的になろうとかは思ったことはない。また逆に対象を写そうとか客観的に現そうとかも思わないで描いている。

ただこうは言えるだろう、絵を描こうとは決して思わずに画面を造ろうとだけ努力していると。ここの差は本質的に大変な違いだと思うのである。画面というものの中に盛込まれた作者の意識のことである。このことに気がつかなければ近代以降の主観のかった芸術というものがなかなか理解出来ないのである。そして理解出来ないところに自分の勝手な想像を盛込んだ文章を一般的に解説書と称して本屋に並べたりしている

私はぜひお薦めしたい、本物の芸術作品にじかにふれられることを。時間をかけて一流と言われるものに接することを。解説書などに頼らずに自分の感性を磨き上げていけばいいのである。

# by papasanmazan | 2012-03-11 21:00 | 風景画 | Comments(2)

卓上静物(完成)

c0236929_20235432.jpg


梨を描くのは好きである。いわゆる西洋梨、日本ではラ、フランスと呼ばれているものだが,なんといっても形がいい。日本のまん丸なものと違って角度や凹凸がいい、それにフランスではごく安価だし豊富にいつでもある。

その梨二つとナイフやグラスを布の上において卓上静物とした。25×20㎝のF3号より一回り小さな特別寸法のキャンバスである。このくらいの大きさにしては少し物の数が多すぎるかもしれない.ごちゃごちゃと物ばかり多くなると画面がせせこましくていけない。

卓上静物というタイトルは時々見かけるが私にとってはなんといっても小出楢重の名前がうかんでくる、若い頃は小出の絵をよく観たものだし,その風景のもとになっている芦屋のあたりを散策したこともある。

日本の油絵の歴史の中でも小出が一番その体質を持っているのではないか,特に裸婦を描いた作品のマチエールなどに表れているような気がする。いわゆるネチッこいところがいい。と,若い頃は思っていたが今観ると少し古くささも感じるようになってきた。

どちらかという小出のなかでは素描にひかれる。この素描はいつまでも残るだろう。安井曾太郎の木炭による人体デッサンもよく引き合いに出されるが,小出の線を使った切れ味のあるデッサンは無類であってこれこそ素描といえそうである。

またその素描を土台にした小説の挿絵が非常にいい。谷崎の蓼喰う虫など代表であろう。それにも何にもまして私は小出の文集が好きである。同じ大阪人としてあの文章の笑いは大いにうなずけるのである。

岸田劉生は小出を評して,あの男は下人なり、としたそうである。座談の名手として人を笑わせてばかりいる大阪人の小出の中に潜むクールな人間観察を岸田劉生が誤解したのも無理はないように思う。

小出とまではいかないが,小出の好きそうなゴタゴタした額に,これも一興かといれてみた。

# by papasanmazan | 2012-03-09 20:22 | 小さな絵 | Comments(2)

花とキリスト(完成)

c0236929_17532620.jpg


キリスト像を描こうとは思っていなかった。南仏に住む以前、パリ近郊のエポンヌに14年いたが,その時我が家の子どもが通っていた小学校の女の先生が,どうした拍子か私の絵のファンになってくれ、よくアトリエに訪ねてきていた。

その女性が祭壇用のマリア像を持っていて,一度頼んで貸してもらったことがある。それを鉛筆のデッサン、水彩、パステルとで描いたことがある。キリスト教には縁がなかったのだがそのマリア像をモチーフにした作品は気にいったものだった。

何年か前に家内がこのキリスト像を蚤の市で買い入れてきたのだが,家内の趣味としても最上のものだと思った。いずれ描こうとは思っていたのだがなかなか組み合わせが考えつかなかった。ゴッホがセザンヌの作品について人から質問を受けたときの返答に,あいかわらず聖龕職人のような仕事をしているよ、というのがある。

またゴーギャンもセザンヌについてセザール、フランクのように古風なオルガンを鳴らし続けている,というようなことを言っている。そんな聖龕職人のような,また古風なオルガンを鳴らすような仕事が現代にでも通用するのだろうか、ふとキリスト像を見つめながら頭をよぎった考えである。

# by papasanmazan | 2012-03-08 17:51 | 静物画 | Comments(4)

マザンの教会とのこぎり山(完成)

c0236929_2110372.jpg

F4号という大きさではあるし,出だしは形も色も面白いように滑らかに入って,スピードに乗った制作だったのだが、悪天候などが重なって途中からかなり息苦しいような進み具合になってきた,以前の私なら投げ出したかもしれないが,年の功かしら結構にねばれるようになってきた。

教会を中心にしてフランスの町や村は成り立っている。大都市にしても、たとえばパリのノートルダム大聖堂などはその都市の代表的な顔である。南仏の片田舎、マザンにもこうした教会が未だに存在して私たちの眼を惹いている。そして生活に根ざしている。

単に観光だけではその味わいも薄いのではないだろうか。また観光となれば皆が名所に集まるのは当然である。しかし私はこのようなあまり名前は知られないが,なんだか親しみがわいてくるような,何かかつての古い思い出を蘇らせるようなものを題材とすることを好んでいる。

# by papasanmazan | 2012-03-07 21:06 | 風景画 | Comments(2)

青いグラス(第一段階)

c0236929_229386.jpg


家の中を時々づつ片付けまくる家内が先日古い額縁の箱を見つけ出してきた。取り出してみるとその額も、中に入っている絵もよく覚えている。フランスに移り住む少し前、ほとんど25年くらい前のことだろうか,大阪の吹田の頃の絵である。

その頃は盛んにこのような構成をはっきり示していこうという意図の静物を描いていたことを思い出す。出来の良しあしは別にして一生懸命だったことだけは確かである。懐かしさもあるが,よく見ているとなんだかもう一度描いてみても面白そうである。

25年の年月の差はどう現れるのか、と大きさも同じF4号のキャンバスを用意した。モチーフには以前のものがネーブルとぐい飲みだったものをオレンジと青いグラスにしてみた。物の置き方はほぼ同じ、そして幸いにも同じテーブルがある。

以前の,それもかなり前の作品を目の前にするのは私としても複雑な気持ちでもあるし、ましてブログでお目にかけるのは気がひけるのだが、これも何かの参考にと思いアップロードすることにした。


c0236929_229312.jpg

# by papasanmazan | 2012-03-05 22:07 | 静物画 | Comments(2)

マザンとヴァントゥー(完成)

c0236929_19592084.jpg


前回この絵の第一段階ではほとんど出来上がりそうな,そんな具合であったがやはりそうは簡単にはいかないもので,その後何度か現場で描いた。崩れさるというところまではいかないが,山の存在、前景の広がりなど個々に見すぎた嫌いがある。

意識を全体性にとその都度持ち直しての加筆であった。この頃はそれくらいのことでは色が濁るとか、バランスが悪くなるとかいうこともあまりないので仕事としては楽しみながら進めていける。大きさもF3号なので描き込みとしてはこのくらいのところであろう。

まだまだこの場所からは描いてみたいパノラマである。もっとスッキリとした表現も,そして季節の違った色調の画面も考えられる。

# by papasanmazan | 2012-03-03 19:57 | 風景画 | Comments(2)

マザンの教会とのこぎり山(第二段階)

c0236929_19491864.jpg

厳しかった寒さが通り過ぎると今度はまた急に暖かくなった。天気予報でも盛んに春だ、春だと言っている。なるほど制作に向かう車から見ると、道ばたのアーモンドの花が咲きだしている。確かに春だ、この花が毎年真っ先に春を告げてくれる。

これから夏のラヴェンダーまで次から次と花が咲き続けていく。空も真っ青である。ところが今日は早朝から霧が出て、風景がどこかへ行ってしまっている。少し日射しが出てきてヤレヤレ、F4号のマザンの教会を続行にでかける。

葉を落としたポプラの色は青空の中で金色に輝いている、その色と建物との接点との深い色とを結びつけていくのがこの絵のひとつのポイントになると思う.その結びつきによって垂直感が強調されていく。それを支える水平感は村の建物全体の横の流れや、背景に迫っているのこぎり山の存在で示されていく。

とここまではいいのだが,急にまた霧が出てきてまずのこぎり山が見えなくなった,続いてマザンの村も消え去った。きょうはこれでおしまい。

# by papasanmazan | 2012-03-02 19:46 | 風景画 | Comments(0)

大きな白樺(第二段階)

c0236929_17191100.jpg


画面に大きな白樺が立っている。手前にはブドウ畑が広がり,奥には農家や畑がみえている。と、さしずめ小説の出だしならこう書き始めたいところである。鴎外の小説「桟橋」の出だしは,桟橋が長い,長い、である。ここでは,南仏の空は青い,青い,と続けたい。

まさしく美術も文学も作り上げていくことに変わりはない。作者の意識や理想、思想や経験などがからまってひとつのものが出来上がっていく。静物画、風景、人物、抽象、具象,どう転んでいっても裏をかえせばすべて自画像のようなものである。

さてこの大きな白樺を小説風に続けていくなら、画面は広い,広い。画面は四角い,四角い。画面は平らだ,平らだ.どれが適語だろうか。

# by papasanmazan | 2012-02-29 17:15 | 風景画 | Comments(0)

暮色ヴァントゥー(完成)

c0236929_1104513.jpg

毎年恒例になって描いている冬の夕暮れのヴァントゥー山であるが,とにかく難しい。あの暮れなずむ赤紫の山肌は誰の眼をも惹くものだが、いざ絵画にしようとすると本当に難しい。。出来るだけ現象面にとらわれまいとはするのだがあの陽の沈む一瞬の美しさにはなかなか勝てるものではない。

というわけで今までにももう何枚も試みてきた暮色ヴァントゥーだが,今年のこのF12号の油彩も(60,6×50,0㎝)どうやらこの辺りで筆のおきどころのようである。現在の私としては制作に不満はない。現象面に引っ張られすぎることも少なかったように思う。

これから先どれくらいの表現にまでこういった画面を高めていけるのかは全く未知のことではあるが,常に美しいものへのあこがれはあるのだから自分の制作にもそういった反映するものが欲しいと願っている。厳しさのなかにも和らかさを、堅固な構成の中にもゆとりを。

もうすぐ春である,来年の冬にはまた夕暮れのヴァントゥー山にモデルになってもらおう。その時までには少しは進歩もしているだろう。
# by papasanmazan | 2012-02-29 01:08 | 風景画 | Comments(2)

農家とヴァントゥー山(第二段階)

c0236929_21225963.jpg


サムホールの小さな絵ではあるが道具立ての多い構成である。家あり、山あり、木あり、畑ありなどで少々うるさくもある。しかし小さな画面にこまごまとものを押し込んでいくのも一興で,割に描きやすくもある。それほど拡がりを気にしなくてもすむ。

こういう道具立ての多い画面は色彩の調和をはかっていくのが一番仕事の目安になるように思われる。余り小さな形にはこだわらないほうがコセコセしなくてよさそうである。ただしどのようなおおきさのキャンバスであっても制作中はよく距離をとって,少し離れて画面を見直すことが大切である。

今この絵を描いている場所は私の家からはマザンの中心を通ってちょうど反対側になる。ところが現在マザンのあちらこちらで下水工事のために道が閉鎖されている。長年いわれていた完全下水のための工事でここしばらくは車の通行が困難である。

森鴎外の小説に普請中というのがある。ある高等外務官が外国で知り合った歌手と日本の高級レストランで再開するのだが、そのレストランは普請中なのである、そして話のオチには,日本も普請中ということになる、

いまマザンは普請中、ひょっとすると私の絵も普請中かもしれない。

# by papasanmazan | 2012-02-27 21:10 | 小さな絵 | Comments(2)

冬の木立ち(完成)

c0236929_2075076.jpg

F4号の大きさのわりには制作の時間もかなりかかったこの絵であるがこれもようやく仕上がった。画面の密度としてはこれでよいと思う。以前から描いてみたかった風景だけに現在は満足している。もう少し大きな画面、たとえば20号位だともっとはっきりした構成になるのだろうが。

木立ちが並列しているところへ奥行きや空間を与えていかねばこういった絵は何をしているのか分からなくなってしまう。その場合に添景としての家や,遠景などの扱いが大切になってくる。これらはあくまで脇役なのだからアッサリとおさめておきたい。

なかなかさり気なく、軽く表現するというのは難しいものである。主役、脇役をわきまえずにべた一面描き込んで,まるで窒息しそうな画面になるのはいただけない。どこもかしこも上手に描けていると思っているのは作者一人で,観るものはアップ、アップしているかもしれないのだ。

この辺りはまだまだ制作意欲のそそられる所ばかりである。
# by papasanmazan | 2012-02-25 20:05 | 風景画 | Comments(2)

丘の風景(完成)

c0236929_1948505.jpg

どうにか完成したようでホットしたところである。最初にこの実景を見たときの感じは非常に緊張したようなものだったが、制作を続行していてもほぼその感じを持続出来た。その結果として一枚の絵としては大幅にゆらぐようなこともなかった。

ある程度は途中の段階でももちこたえられるようになったと思う。どうしても制作を進めていく上で画面が崩れる場合がでてくる,それは形や色の展開していく過程では当然であるしまた必要でもある。それを元に戻したり、進めたりしていく訳だが,絶えず自分で判断しながら筆を加えていかねばならない。

そのときの意識をどう筆でつないでいくかということが問題になってくる。それをもって制作の進行といっていいのだろう。要するに何かをもちこたえながら進めていく,それがその人にとっての一つのペースになっていく。

F8号の風景画一枚の完成である。

# by papasanmazan | 2012-02-24 19:47 | 風景画 | Comments(4)

大きな白樺

c0236929_9112866.jpg

大きな白樺の木が立っている。手前にはブドウ畑がひろがリ、そのむこうには農家や丘が見えている。よく車で通っているところなのでこの白樺は気になっていた。今年はこの辺りで制作することが多い。もう冬は過ぎよう,春が来るという時期なので,この白樺は来年まわしにしようかとも思ったのだが何とも魅力がでてきた。

F15号(65.1×53.0㎝)のキャンバスに始めてみた。ちょうど長かった寒波も去ったところなので戸外でも落ち着いて制作出来るようになってきた。一度寒さが遠のいて晴れてくると冬でも南仏の日射しはかなりのものである。

空も青い,青い。そのなかでオレンジ色の葉っぱをつけた白樺が一段と大きく見えている。この白樺やプラタナスの幹は白色といってもそれほど単純で一様なものではない。こういう色をあつかう時には周りの色との比較をよくしないと失敗する。

たとえば水を描くときもそうである。水自体には色はなく,他の色の反映で水の存在が分かってくるのだからこれも周りとの比較が必要である。強いていえば色と色との関係をみきわめ、またその色というものの中には面積が含まれるのであるから,一枚の絵を描くのにも分析力と総合力の複雑な意識のからみあいが展開されるのである。

# by papasanmazan | 2012-02-23 09:09 | 風景画 | Comments(2)

マザンとヴァントゥー(第一段階)

c0236929_21293656.jpg

第一段階といってもかなり進んだ制作状態である。さて八割かたは完成に近づいているだろうか。ひょっとするともうあと一筆,二筆で出来上がるのかもしれない。と思いきや無惨な描き込み過多で、単に鈍さだけの目立つ画面になる場合もある。

マザンに住んでもう九年近くになる。少しづつ新しい家も増えているが、このF3号(27、3×22、0㎝)の絵を描いている場所から見るマザンの村やヴァントゥー山の全景はほとんど変わらない。四季を通じて美しい表情は有り難い。出来ればこのままでいてほしいものである。

こういったパノラミックな風景はどこに焦点を当てるかが難しい。またひとつだけをクローズアップしすぎるわけにもいかない。とくにこれはF3号という、いわば小さな絵なので,マザンの教会をある程度描き込むくらいの説明にしておいて、あとは山の容積と森の塊などで全体を包む,という感じで制作を続けている。

ようやく寒波も去ったようで,遅れている制作を取り戻さなければならない。

# by papasanmazan | 2012-02-22 21:24 | 風景画 | Comments(2)

ふくれっつらとアマリリス(第一段階)

c0236929_21184560.jpg

花は好きだがあまり絵のモチーフとして花は使わない。その散り際を観るのはなんだか寂しいし,制作が長くかかってしまうので,どうも花をモチーフにすると気ぜわしくって落ち着かない。それでも最近は続けて花を扱った静物画を描いている。

三週間ほど前に買った鉢植えのアマリリスが大きな花をつけた。これと以前からごひいきのカルポー作のふくれっつらの小さな彫刻を卓上においてF6号の縦型(31.8×41.0㎝)に描いてみた。元来立て型は安定が悪く,物もおさめにくいものだが花の高さの関係でこうなった。

カルポーの彫刻は好きである。たとえばパリのオルセー美術館に行くと,その後輩にあたるロダンよりもカルポーの,ある意味では軽快さといったような動きに惹かれることがある。ロダン美術館で重厚な作品群に取囲まれた後のカルポーの作品のさわやかさというか,一種消化剤のような感じがするのである。

そのカルポーの造った少年の胸像である。なぜかスネてふくれっつらをしている。あまり植木鉢の面積が多すぎるので,籠にポッソリ植木鉢を隠し込んだ。

# by papasanmazan | 2012-02-19 21:11 | 静物画 | Comments(2)

丘の風景(第三段階)

c0236929_2073350.jpg


ようやくひどかった寒さも少しやわらぎ、懸念していたこの丘の風景画を描きに出かけられるようになった。F8号の油彩である。丘は葉のおちたポプラや白樺などで覆われ,その隙間からあちこちに石造りの家が見えている。  

冬の寂しい静かな風景である。しかし最初にこの実景に出会った時から,全体としてのダイナミックな量感に惹かれたのである。まるで左上から右下にかけて転がり落ちるような塊が表わせないものだろうか,と狙いを定めた。

画面を作り上げていく上での一つの狙いである。出発点のイデーと言っていいと思う。それを油絵具という材料を使いながら追求していくわけである。しかしそれほど一直線にイデーを追っていくことがなかなか出来ない。

時間の経過や,自分の中にある弱さなどで最後までそのイデーをひっぱっていくのは至難のわざである。現にこの絵も少し表面の複雑さに惑わされて,画面全体が弱くて説明過多になってきてしまっている。確かに進んでいる,と現場で思えるような時、これがなかなかのクセモノなのである。

# by papasanmazan | 2012-02-17 20:03 | 風景画 | Comments(3)

花とキリスト(第三段階)

c0236929_2323279.jpg

アトリエの片隅に観葉植物や,外の寒さから守るために幾鉢かの花を置いている。日当りがいいので冬とはいえ時折水もやったりする。そんな中にキリストの像を置いて,花の色や葉っぱの緑をアクセントにしてF10号(53、0×45、5㎝)のキャンバスに描いている。

人工的な設定の静物画ではあるが,それはそれでいいと思う。ただ物の置き方や取り合わせが如何にも人工的であっても画面が作り物になってはいけないと思う。絵画そのものの考え方が自然とは違った別の世界なのだから、人間の考えがそこには当然盛込んでこられる訳である。

しかし観る人の眼に対してはナチュレルな世界であっていきたいと思う。ウソはウソの世界なのだが,そのウソ以上の世界を表現出来ればと思うのである。

# by papasanmazan | 2012-02-15 23:20 | 静物画 | Comments(2)

冬のヴァントゥー山(第三段階)

c0236929_2095636.jpg


ほぼ一ヶ月ぶりにこの絵にむかった。その間の二週間以上は猛烈な寒さのために戸外での制作は無理だった。今朝になってようやく少しばかり寒さが緩んだので、気持ちも新たに七つ道具を背負い込んで現場に出かけたのである。

大まかな進み方はこれで良いと思っていたのだが、それはアトリエの中で観ているときの話だけで、やはり自然の中で点検するとアナだらけの画面である。横の広がりはまずまずだが,縦のつながりが悪い。そのために深さが足りなくなっている。

人の目の動きというものはたいしたものである。上下,左右、斜め、全体、細部など人間の脳から発せられる命令に応じて,あらゆる視神経が画面に対応されていく。どれほど精巧なカメラでも人間の眼にはかなわない。

その眼を最大限に使うのが造形芸術なのである。どれほど口上手に説明してしても眼で判断したものがだめなものならばダメである。それには正直に従わなければいけない。

それで奥へ、奥へと切り込みを入れ込んでいくつもりで垂直の動きを特に強めていく様にした。しかしまだまだ課題は残る,全体としての表情がまだ足りない。写真でいえばお見合い写真のような取りつくろった,無表情なもので,生き生きとしたポートレイトになっていないのである。

# by papasanmazan | 2012-02-14 20:01 | 風景画 | Comments(0)

冬の木立ち(第二段階)

c0236929_224428.jpg


毎日の天気予報の気温ばかりが気にかかるこの頃である。この風景画も描き始めてからもう数週間になるが,厳寒のためになかなか制作が進まずにいる。F4号(33,4×24、3㎝)の、それほど大きな物ではないのだが,それでもやはり神経はとがってくる。

小さな画面の密度というのは難しい。ただただ細かくすればいいというものでもない。主役、脇役それぞれの働きもあるし,ヴァルールを高めていきたいというのは大きさに関わらず度の画面でも同じことである。

特にこの絵の場合,木立の扱いをよく考えておかなければならない。幹や小枝の扱いを線的にするところ,面として扱うところ,そしてそれらと空間との関係、木々の間に作られる空間と空とのつながりなどである。

たかだか4号のキャンバスに描き表していく場合でも,画面全体の働きを考えるとやはり視神経と,頭で順序づけるところ,筆のさばきなどの兼ね合いで、それほど簡単には進まないものである。

# by papasanmazan | 2012-02-12 22:37 | 風景画 | Comments(0)

農家とヴァントゥー山(第一段階)

c0236929_19475658.jpg


猛烈な寒さの続くフランス、テレビのニュースでも連日各地の被害が報道されている。今年は大統領の選挙戦だが,それ以上にこの厳寒が大きな問題になっている。少しくらいの寒さなら充分に着込んで外での風景制作を続けるのだが,この何週間かはさすがに室内の静物画が多くなっている。

そんな中、陽がうんと高くなったときを見計らってサムホールの小さなキャンバス(22.7×15.8㎝)にヴァントゥーを背景にした畑の中の農家を描いている。丸い小さな建物が面白く以前から描いてみようと思っていた、

こういった建物が自然と上手くマッチしているのが大変に有り難い。そこに生活そのものがあるからだろう、「つくりもの」という感じがしないのである。寒さの中で春を心待ちにしている人たちがきっとその建物の中にいるのである。

画面にははそういう感情や心情、またセンチメンタルな気持ちなど一切持込むつもりはない。しかし描いている途中、少し退がって全体の画面を確かめていると,かじかんだ指を暖めながら,いやでも冬の寒さが身にしみるのである。


# by papasanmazan | 2012-02-11 19:45 | 小さな絵 | Comments(2)

チューリップ (完成)



c0236929_11415833.jpg


ようやく一つ落ち着いたところまできたように思う。最初から懸念していた,花の奥にそえた白いビンもなくして画面はスッキリした。その小さな白いビンを消した当初はなにか空しい画面だったが、ようやく密度も整ったようである。


前にも言った様に,花や葉っぱの個々の説明などをしようとは思わない、一枚の絵としての存在感が欲しいのである。結果としては、なんとヘタクソな絵だ,と観る人によっては思われるかもしれない。そういった絵である。


私としては花瓶の直立しているのを強調したかった。その点に関しては非常に満足しているし,この夏にはこの感覚でもってヒマワリにもう一度活気を与えたような画面が考えられるのではないだろうか。

# by papasanmazan | 2012-02-10 11:43 | 静物画 | Comments(2)

チューリップ(第二段階)


c0236929_11383958.jpg


F8号にチューリップと花瓶、その奥に小さな白いビンを添え物にした静物画、それほど難しくないはずなのだが、なんのなんの、これほど悪戦苦闘しようとは思わなかった。普通の意味でいって,形をとり、色を塗っていって明るさと暗さ,奥行き、ヴォリュームなどが保証されてきてできあがってくるはずなのである。


物が表現され,実在感が出てきて充足された空間をあじわうこと、視覚上の錯覚をもふまえて一枚の絵が出来上がるとはそういうことなのだろう。しかしどうしてこうモタモタしなければいけないのだろうか。
理由は分かっている,実在感に対する感覚が違ってきているからである。


たとえば花があり,葉っぱを緑で添え,花瓶を描いて絵を組み立てる、そして物それぞれの基礎的な面付けでヴォリュームをとらえていく。そういった個々の物という考えから隔たってきているのである。一枚の画面という考え,タブローという概念である。


一つの表された画面だけが存在する,と言っていい。これがなかなか理解出来ないのである、だからマラルメの詩が難しく感じるのである。ここを徹底して分かっておかないと、モナ、リザにはヴォリュームは感じるが,源頼朝像にはヴォリュームがない,などという議論に陥ってしまうのである。


画面ということではモナ、リザも頼朝もおなじことである。さてこのてこずっているチューリップ、どうすればいいのか,一つの答えは簡単である。花瓶が立てばいいのだと思う。判断はそこにしかないようだ。

# by papasanmazan | 2012-02-10 11:40 | 静物画 | Comments(0)

チューリップ(第一段階)


c0236929_11331486.jpg


天気予報を見ているとしばらく風が強く,曇りや雨の日が続くようであった。これは外での制作が出来ないのでマズイと思い、あわてていつもの花の卸し農家に行った。


冬場なのであまり種類は多くないが、それでも色彩にかこまれている。ユリのつぼみがあって,これは咲くのにどれくらい時間がかかるの、とたずねたら、三週間くらい,でも咲いたら長持ちする,と言う。


明日からでも描きたいので,これは駄目だというと,チューリップならすぐに咲く、とのこと。大きなつぼみのものを八つ包んでくれた。さてアトリエにおいてある花瓶で,家内がこの間のみの市で買ってきたオランダ製のものに飾ってみた。


昼食が終わり,いつものクセで少し昼寝をしてからアトリエに入ったら、なんとそのチューリップがもう既に満開なのである。なるほどすぐに咲く,と言ったはずである。あわててF8号のキャンバスをもちだした。

# by papasanmazan | 2012-02-10 11:36 | 静物画 | Comments(0)