バルーの村とヴァントゥー山




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先日のバルーの松と城に続いて、対になるM25号、バルーの村とヴァントゥー山の絵も出来上がった。アトリエで二枚の作品をそれぞれ額縁に入れて眺めているところである。独立した一枚の作品として制作していたが、やはり並べてみていると、以前から対称的な構図として考えていただけに、二枚一組も悪くないと思う。


まだ二十歳代半ば過ぎの頃、京都の市立美術館で鉄斎の大展覧会が催され、莫大な数の作品が並べられた.この期を逃してはならじ、と京都にしげしげと通って勉強させてもらった。その時に観た、阿倍仲麻呂明州望月図と円通大師呉門隠栖図、これは鉄斎七十九歳の時の作品で、6曲1双の屏風絵である。この左右対称になる作品が忘れられずにいて、二枚のバルーの絵の制作につながってきているわけである。


この鉄斎七十九歳の6曲1双の屏風絵を境にして八十九歳で亡くなるまでの晩年の傑作群が制作されていく、これは鉄斎にとってひとつのエポックであったといって作品である。八十五歳を過ぎた最晩年の作品と見比べると、まだこの6曲1双の屏風絵には若さが残り、絵としても硬さが見られる、しかし名品には違いない。ここから真の鉄斎が始まっていく、といっても過言ではないだろう

この経験が必要なのである、絶対絵画にいたるまでの一つのエポックを自分で切り開いていかなければならない、そんなことを考えながら出来上がったバルーの二枚の絵を眺めている。


 


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# by papasanmazan | 2018-05-28 08:34 | 風景画 | Comments(1)

卓上の楽器



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静物画のモチーフに大好きな楽器を時々使うことがある。今回もF15号のキャンバスにクラリネット、コルネットそしてフルートと三つを組み合わせ、その他にポット、小さなカップ、緑や茶色の模様の布などを加えて、少し複雑な感じの作品を考えてみた。

とにかくこの一枚には時間が掛かった。制作の途中でほとんど一ヶ月以上もそのままにほったらかしておいた状態であった。組み合わせや、進み方は非常に気に入っていて、何の不足もなく進むはずのところが、平行して描いている風景画や、家内の肖像画など、それらを納得できるまで制作し終わらないとこの静物画を続けることが出来ない感じがして、自分としても何か腑に落ちないような制作過程であった。

一つ再開しようという段階になってから画面上の動きが大変に激しく変化しだしたのである。形の変化(デフォルマシォン)や省略、溶かし込み、また描き起こし、など続から続へと変化していった。

ひとくちにデッサンといっても何も正確に形を写すだけではない。画面全体の動きの中で個々の形は変わっていく、また画面上の実在感を求めて変形されたりもする。それらを総して制作というのである、ただ感覚もなく、感情の高揚もなく目の前のものの色や形を追うわけではない。

ヴァレリーの美術論、〔ドガ、ダンス、デッサン〕の中で引用されているドガの言葉、デッサンは物の形ではない.、物の形の見方である、これは大変に上手く言い当てたものだと思う。

出来上がった自分の作品にあまり執着もしないし愛着など感じることはほとんどないが、この静物画は珍しく自分ながらに気に入っている。特に苦労したポットのふたの上部の曲線は好きである。




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# by papasanmazan | 2018-05-25 19:51 | 静物画 | Comments(2)

バルーの松と城




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南フランスに住んでもう15年になるが、いまだにその美しさは尽きないままでいる。初めてこんな近くにバルーの城があるのに気づいてから、角度をいろいろ変えながらかなりの数の油彩や水彩を描いてきている。なかでも城やバルーの村の全景が見渡せる小さな礼拝堂のある丘からは手前の松の林も取り入れた構図が格好で、大変に気に入った場所である。

最初にこの場所で制作したときのことは今でもよく覚えている。M25号の横型に城や村の俯瞰図を描いたのだが、喜び勇んで始めたものの、途中からその難しさに四苦八苦して、ようやくあえぎあえぎ仕上げたものだった。特に手前の松の重なりが難題であった。

以来この構図はもう一度必ずやってみようとづっと暖めていた課題である。それに加えてもう一枚、この城からづっと向かって右のほうに展開していく村の姿も松の林を配しながら描いてみる、つまり右双,左双の二双の油彩にしてみようという試みである。大きさは共にM25号である。

まずこの出来上がった城と松の絵であるが、最初に描いた時から十数年の隔たりがあるので進み方が完全に違ってきている。目の前のモチーフになる風景も、使っている材料の油絵の具や筆など何の変わりもないのだが、進むスピードがまるで違っているし描いている本人の心構えも遠くへだった感じがする。先日このブログに載せた笠松と丘のときに感じた一つのエポックと同じ感覚でつながっている制作である。何か同じ通奏低音がづっと鳴り続けていような気持ちでの制作であった。

右双の作品は五日ほど遅れた描きはじめで、今制作半ばである。




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# by papasanmazan | 2018-05-21 02:49 | 風景画 | Comments(2)

バルーの村とヴァントゥー山



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いつも描いているヴァントゥー山は横に広がって雄大な形を見せている。南フランスの巨人と呼ばれるだけあって、その高さだけではなく山すその広がりなども含めて実に描き応えのある風景である。我が家の付近からだけでも今までに何枚のキャンバスを費やしてきただろうか。


そのヴァントゥー山も方角を変えてバルーの側から見るとぐっと違った形になってくる。まるで小型の富士山のような三角形が現れてくるのである。手前の丘などを合わせてみていくと精進湖から見た子抱き富士のような感じになっている。この風景も以前から描いてみたいと思っていたのだが、ようやくまとまった構図の場所が見つかった。バルーの村はずれの民家がいくらか見えていて色彩の変化につながり、糸杉がにょっきりと立っているのが垂直性を与えてくれる。


P12号に描き始めたのだが、やはりいつもの描き慣れたのと形が違うので制作の進み方が遅くなる。山の構造の面がなかなかつかみにくいのである。描き始めから数日たってようやく全体の構造がつかめてきた。一つ調子がつかめると後は割合にスムースにおさまっていく物である。こちら側からのヴァントゥー山,描く場所も選びながらもっと制作できるはずである。




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# by papasanmazan | 2018-05-13 02:53 | 風景画 | Comments(0)

三つのリンゴ



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サムホール(22、7×15,8)の小さなキャンバスにリンゴを三つ並べて描いてみた。どこにでもある赤い、丸い、なんでもないリンゴであるが、これを小さな画面におさめていくのも思っているよりも難しいもので、空間や画面の構成などを考えていくのに大変に勉強になるものである。美術館の壁面に並べられた大画面も一つの作品なら、サムホールのような小さな画面に描かれたリンゴの絵もやはり一つの作品に違いない。


なるほどただ丸くて、赤いリンゴではあるが、意識してよく見ているうちにそれぞれに形の違いがあったりして何か人間と同じような性格の差というようなものに気づいてきたりする。色の変化だけではなく、各リンゴのもっている面の組み立てまで理解できるようである。キャンバスも小さく、モチーフも単純なだけにかえってそういった意識がはっきりと持てるのがいいところである。




一応の動きを考えて赤い筋模様の白い布を工夫して仕上げてみた静物画である。




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# by papasanmazan | 2018-05-09 00:29 | 小さな絵 | Comments(0)

プロヴァンスの小屋



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今年の四月に完成したF10 号のプロヴァンス風景と同じ場所でもう一枚、笠松や糸杉、小屋など道具立てはまったく変わらずに、ほんの少しイーゼルの位置を変えたくらいで描いてみた。今度はP10号で、しかもフランスサイズのキャンバス、これは日本のP10号よりもまだ細長い形のキャンバスである。


先日のF10号を描いている時点でもう一枚もっと横長のものを描いてみたいと思っていたのがこの形をとらせることになった。モチーフに選んでいる笠松の横の広がりが前作とは違った狙いで、出来上がった作品もそれぞれの性格の強さ、弱さなどがくらべられそうである。


このように同じ場所、同じようなモチーフでも捉え方や、自分の創作意欲によってかなり表現が違ってくるものである。出来上がったものを見て絵を描いている本人も不思議な気持ちにさせられる時がある。





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# by papasanmazan | 2018-05-07 01:06 | 風景画 | Comments(2)

イチゴのある静物




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今年もイチゴの季節がやってきた。フランス産はなんといってもカルパントラが名産地であるが、そのフランスのものが出回る前にスペイン産のものが市場に並べられる。これは値段が比較的安いが、食べるのには少し酸っぱ過ぎて、我が家ではまずこれらを大量のジャムにしておいて、その後カルパントラのイチゴを味わうことにしている。毎年の旬のイチゴが楽しみである。

そしてこの時期には白アスパラが出回っていて、これも楽しみである。食卓にならぶアスパラの回数を毎年、子供の時のクラス委員の選挙みたいに〔正〕でチェックしているのだが、今年はすでに八回、昨年は二十三回だった。まだまだ白アスパラを味わえそうである。


イチゴをモチーフに入れて、グラスや小さなカップなどとを組み合わせたF3号の小さな静物画を描いてみた。少しうるさくなりそうな気がしたが複雑な模様の布を背景にして全体を構成してみた作品である。途中でイチゴは何度も取り替えて、そのたびに口に入れて味わった。二重の楽しみの静物画である。





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# by papasanmazan | 2018-05-05 23:11 | 静物画 | Comments(2)

笠松と丘





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赤い岩を描きに行く道の途中で笠松が群れをなしているところがあって、いつもは横目で眺めながら車を走らせているのだが、先日ちょっとした脇道を見つけたので中にまで入ってみた。そこには急に開けた景色が展開していて、横目で眺めた笠松が堂々と目の前に並んでいた。その向こうにはいつものブローヴァックの丘が見えている。


大変に意欲をそそられた風景でさっそくP15号のキャンバスに制作を始めた。相当に描きこんだ画面になって完成したのだが、とにかく集中しきった時間の連続であった。毎回の制作の間もほとんど休憩することもなく、意識が完全に画面に向かっていた。


いままですでに何十年と制作してきたわけだが、この一枚は自分としては一つのエポックになると思う.作品の出来ばえがどうのこうのということ以上に、今まで制作してきたことの集約がこの一枚に出てきていると言える。


べつに感慨に浸っているわけではないが、とにかくこれからが大切だと思っている。




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# by papasanmazan | 2018-04-21 00:53 | 風景画 | Comments(2)

梨の静物







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フランスで買った額縁にあわせて一枚静物画を描いてみた。大きさは6号と8号の中間くらいである。洋梨三つと食器の組み合わせで、白地にに赤い線の模様の布を台の上に敷いてある、いってみれば極あたりまえの静物画である。


高校三年の時に新任の美術の先生に、大功は拙なるが如し、という言葉を習った。その時は他に武者小路実篤のことなどにも話が及んでいろいろ新鮮な感じがしたのを覚えている。しかし高校生くらいではなかなかその本来の意味はつかめなかった。


のちに大功は拙なるが如し、とか大賢は愚なるが如し、というのが老子の言葉だと知り、そしてこちらも年齢を加えるにつれそれらの内容が良く分かるようになってきた。最近は老子,荘子などを好んで読んでいる。


なるほど絵の作品の上でも大功は拙なるが如しというのはうなづける言葉だと思う。ちょっとした見た目には大変上手で、人目をひくような作品でも長く見ているとアキてくるものもある。また段々と嫌気が差してくるような作品もある。そういった小器用で、ちょっとした小才のきいた絵がシャレたギャラリーなどに並んでブームになったりしている。


極当たり前の,何の奇を衒ったようなものもない、一見拙に見えるような作品、そういったものを描いてみたいと思っている。





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# by papasanmazan | 2018-04-16 19:33 | 静物画 | Comments(2)

赤い岩の道



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久しぶりに赤い、赤い岩で囲まれた道で制作した。何度かここの道は描いているが、かなり長い距離で歩ける道ではあるが途中の幅が狭く、どうしても入り口付近のほうが制作しやすくなっている。いろんな角度を試してみるのだが三年ほど前にF20号に描いたのと同じ場所で、今回はF15号のキャンバスに始めてみた。

やはり何年かの違いで描き出しからの感じは違ってきている。スムーズになってきているだけではなく個々のものの描写が、これはすばやく描いていったほうがいいと思われるところを以前よりもモタつかずに描きこんでいける、逆にこれはこのまま何も手を加えずにしばらくそのままにしておいたほうがいいという部分などの判断が躊躇なく出来るようになっている。その分制作はらくである。

もう一ついえることは赤い岩だからといって妙に赤の色にこだわらなくてすむようになってきている。これはおそらく赤という色だけに限らず制作全般の色彩の施し方にも出てきているような気がする。つまり全体的に色彩が以前よりも軽く出るようになってきているといってもいいのだろうか。

それと細部の描写も簡単に表せるところは簡単にするというコツもつかめたような感じである。

しかし自分の持っている造形感、これはあくまでも推し進めていくつもりである。




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# by papasanmazan | 2018-04-09 15:42 | 風景画 | Comments(2)

プロヴァンス風景




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プロヴァンスの風景として映画やグラヴィアなどで小さな教会や建物の横に糸杉がたっていたりオリーブの緑が添えられているような光景を見かけることがある。何かひなびた親しみのある風景なのだが、そういう何気ないものも描いてみたいと思っていた。ちょうどバルーのお城を抜けてロック・アルリックの岩山へ向かう途中に糸杉と大きな笠松が並んだ横に小屋が建っている見晴らし台がある。


そこからの眺望はヴァントゥー山がまるで富士山のように見える角度にひらけている。この見晴らしもいずれ描いてみたいとは思っているのだが、今回はF10号のキャンバスにその笠松や小屋、糸杉などを取り入れた風景に取り組んでみた。


常緑の松や糸杉の色もまだ早春の光の中ではいつもほどコントラストがきつくなく、全体としては対比的な強さには欠けるかもしれないが、色彩のやわらかさには魅力があった。この風景は真夏の炎天下でも一枚描いてみたい気持ちになるが、それとともにこのF型のキャンバスよりももう少し横に細長い形のP型にももう一枚試してみて、笠松の広がりを強調したものも面白いかもしれない。








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# by papasanmazan | 2018-04-07 03:10 | 風景画 | Comments(2)

旧作 バルーの大きな松




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これも昨年7月中旬に出来上がったF15号、バルーの大きな松に加筆したものである。もうすでに暑くなっていた頃に描いていたのを覚えている。この作品の不満だったてんは特に深い色の部分の諧調が足らないというものだった。昨年の段階ではそのあたりにも気をつけていたつもりだったが、やはりまだ足らなかった。どれだけ集中して描き込んだとしても、画面上で足りないものはやはり足りないのである。目の判断に頼るしかない。


そういった不足しているものに何とか答えを与えようと努力していくわけだが、その点でその判断の基準に話が戻るのである。やはり何らかの理想が自分の中にあるのだろう、どこかで学んだこと、獲得したこと、それらは実際の経験によるものもあるだろうが、三次元の現実世界から離れた、何か神秘的な作用が働くのではないのだろうか。それを私は直感によるものといいたいのである。


科学の世界が分析による論理力に基づくのとは違って芸術は直感による理想との交感が第一義の美学になるのではないかと思っている。




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# by papasanmazan | 2018-03-29 00:44 | 風景画 | Comments(0)

旧作 ボーセの石切り場





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一昨年(2016年)3月29日に完成した作品、ボーセの石切り場にも加筆してみた。この絵は出来上がったときから岩場の細部に不満があった。端的に描写がまだまだ足りないので岩の部分と下方の人家との対比がはっきりせず、その結果絵としての流れが上から下のほうにうまく引っ張れないでいた。そこのところをどうすればいいのか一昨年当時には分からなかった、それがはっきり見えてきたので、やはり現場にもう一度戻って加筆してみた。


岩場の左側の張り出しが足りなかったのが原因である。そこのところを強調することで急に画面が立ってきたようである。縦型に使ったキャンバスであるから名実ともに絵が立ってきた、それでよしとする。


さてその見えてくるところ、いったい何を持って不足しているものなら不足していると判断できるのだろうか。何か基準なり、理想なりをどこかで判断の元にしているのではないか、しかし自分の過去を振り返ってみてもそのようなことをどこかで学んだような記憶がない。


過去と言い現在、未来と言えばこれは時間である、そして絵を描いている自分は現実の空間の中にいる、この時間、空間に限定されて生活をしているのを自覚できるのが人間である。その時間の過去の部分に思い当たるものがない美の基準が急に現在の自分に見えてくるというのはどうしたことなのだろうか。これは今いった時間や空間を離れたところに何かがあるのではないか、そんな不可思議な思いにとらわれるのである。(この項続く)。




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# by papasanmazan | 2018-03-26 08:06 | 風景画 | Comments(2)

旧作 赤い森の木立ち




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昨年三月上旬に完成したF12 号、赤い森の木立ちに加筆したものである。この絵はずっと気にかかっていたもので、物の納まりや構図全体はそれほど問題にならないのだが、木々の間のヌケが少なすぎて少し息苦しい画面になっていた。その木と木の間に空間を与えていくのはさして難しくないと思われていたのだが、それだけではまだ何か物足りないものを感じていた。


その物足りないものにハッと気づいたのである。全体のリズムといっていいのだろうか、気韻生動とでもいったものである。それは対象になる自然物を腕だけを頼りに写していくだけで出来上がるものではない。もっと自分の中にある動機をつきつめて表現していかなければ出てこないものではないだろうか。


そういった何かを表現してみたいと思う気持ち、情働はどこからくるものなのだろうか、こここのところをよく自覚しておかなければならないと思う。制作にいたるまでの自分の内面を探求することである。それを突き詰めているといつも出てくるのがプラトンのイデアの説で、そのイデアを想起していく、思い出していく、ということになる。

そういった何らかの学習したものや、経験したものを思い出していくこと、それがないと美なり真なり善というものが成り立たないのではないか、まったくの感覚や自然経験だけでは創り出せないのではないか、そう思えてならないのである。(この項続く)


このF12号も現場で加筆した。直感的な色を生かすようになってきたこの頃の制作である。



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# by papasanmazan | 2018-03-22 20:24 | 風景画 | Comments(0)

旧作ヴナスクのプラタナス



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冬の間の制作もようやく一段落して、これから春にかけてもかなり制作の予定が立っている。出来ればもう少し建物などを取り入れた風景なども試みたいと思っている。

それからこの頃、旧作、特に昨年のものだが、一応完成させ、サイン済みの作品にも再び目を向けてみたりしている。その時はまずまずそれでよしとしていたものだが、どうもまだ完全に納得がいかない心情で、日本の個展にも飾らなかったものがかなりの枚数である。その内の何点かをぢっと夜中に見つめていると段々に見えてくるものがある。

単に見ているのではなく、見つめていると、普通に見ているというのではなく。見えてくる、という直覚につながってくる。ものを見るということは認識の単純なものかもしれないが、見える、ということは創造につながる直覚である。自分の描いた作品を見ていて、なおその上に画面が見えてくるのである。

不思議な経験であって、これはいままでになかったことである。このことはもっと突き詰めて考えてみなければならないし、自分の中では特にプラトンの想起の説につながっていくところである。このあたりは今後もっと文章にもしたほうがいいと思う。


とりあえず一枚の旧作を出してみる。昨年の2月末に完成したヴナスクのプラタナスという作品、F15 号を再び現場に持っていって加筆してみた。


じっと見つめていて全体としてはかなり良く描き込めていたと思ったのだがメリハリが足りない。プラタナスの立っている実在感が際立っていない、それは遠景の水平感が足りないからである、と気づいたのである。総合して色彩を色彩として独立させてもヴァルールが外れないだけの力はついてきているので、思い切った仕事を進めてみるようにしたものである。自身を持って制作すればよいのだと思っている。




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# by papasanmazan | 2018-03-21 02:10 | 風景画 | Comments(2)

マザンの農家




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今年の2月に出来上がった冬の野の風景と同じ場所に大きな農家があって、またそこには立派なチオル(菩提樹)の木が姿を見せている。夏になったらさぞ涼しい木陰が出来るのだろうなと思われる。プラタナスやチオルを見るたびにあの夏の炎天下の木陰を連想するのである。


もうそろそろ冬の風情も終わりに近くなって、ようやくこの農家の絵を完成させた。前の冬の野の風景と同じP8号の大きさである。このチオルの葉が出てくるとほとんど農家を覆いつくして緑一面の景色になってしまうので、昨年この場所を見つけたときから、これは冬の制作にと予定していた取って置きの場所である。


こういう冬の景色も描きこんでくるとおのずと色の使い方が分かってくる。とくにうまくう紫系統の色に注意すべきだと思う.そしてその対照になる黄色を抑え加減に持っていくほうが上手くいくようである。紫と黄色をあまりに強く使い込んでいくと、冬という感じから離れてしまうのと同時に、画面の品もあまりよくないものになりがちである。





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# by papasanmazan | 2018-03-17 16:48 | 風景画 | Comments(2)

ピッコロのある静物




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もうすぐ本格的な春というところだが外は天気が悪く、今年になってからも強風や雨の多いプロヴァンスである。せっかく咲いているアーモンドの花も風で吹き飛ばされそうである。この一週間ほど特に強風が続き、それも夜中の十二時頃が特にひどく、本を読んでいても何かこのまま家ごと、世界までがつぶれてしまうのではないかという位の音がして、落ち着いて集中できない時間をすごしている。


制作も戸外の風景がままならず、静物画を少しずつ描いている。約500×400ミリの特別寸法のキャンバスに久しぶりに楽器のピッコロを描いてみた。ローソクやパイプ、ふくれっつらの像、リンゴそれにオレンジなどを合わせて構成してみたものである。キャンバスは8号と10号の中間くらいの大きさで、フランスで買った額縁にあわせたものである。


描いていて随分抽象的な進め方になってきたのに気づく。あまり固有の色にこだわらずに、直感に頼った色の組み合わせが主になって、それらを使った画面の動きを考えていくのが今の制作方法である。これは以前から理想と思っていた方法であるのだから、一つ喜んでいいのではないだろうか。全てが嘘というわけではないが、現実の目の前のものだけに終わるのではない、もっと違った理想がある。すこしずつプラトンを読み返し、イデアの世界や、パイドンのなかの霊魂不滅の説などに納得している。





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# by papasanmazan | 2018-03-15 19:08 | 静物画 | Comments(2)

マザンの大きな白樺




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毎日の犬の散歩道に大きな白樺の木があって、そこからマザンの村とヴァントゥー山が見渡せていい景色である。昨年もこの場所でF3号の油彩を描いたが、今年は少し大きく、F6号にしてみた。6号の形のほうが感覚的に横長で、ヴァントゥー山がすんなりとおさまりやすいのではないかと思った。


ヴァントゥー山ももう随分描いているが、ようやく力の抜き方が分かってきて描きやすくなってきた。左に垂直性のある白樺の木を配置して、その枝振りと山や村のバランスを考えていく。まだまだ冬の名残の色が多いのだが緑の色も活用できるだけの量はある。白樺の幹や枝の輪郭の色を出来るだけ生かしながら奥に見えるものとの遠近感を調節していくのが一つの仕事のメドである。


以前よりも少しはしまった画面になってきたように思う。




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# by papasanmazan | 2018-03-13 21:16 | 風景画 | Comments(0)

冬の原



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宇野浩二の小説に〔枯木のある風景〕というのがあって、若い頃に読んだのを記憶している。主人公は実は洋画家の小出楢重で、小出の晩年の作品の題名が枯木のある風景であるところからこの小説の題名になっている。宇野浩二も小出楢重も共に大阪出身である。


話の内容は登場人物が当時の信濃橋研究所で小出とともに指導者だった鍋井克之や黒田重太郎などが登場して、小出亡き後の話をつづっていく、その中でもとりわけ遺作といっていい枯木のある風景のすさまじいまでの小出の天才性が浮かび上がってくる。日常生活と芸術との葛藤や、普段は座談の名手といわれるほどのオモシロ、オカシイ面の裏に隠れた研ぎ澄まされたような創造力、そういったエピソードを交えながらの枯木のある風景をめぐる小説である。

この絵の風景は小出のアトリエのあったごく近くの実景をスケッチしたものだそうで、芦屋風景である。電信柱が高く立っていて、電線には人らしいもが腰掛けている、なんだかよく観ると少し妖気さえ漂っているようで、まるで遺書を読んでいるかのような絵である。小出自身は、芭蕉の世界や、現実と空想のミックスや、といっていたそうである。

何もいい風景を求めて遠くを探すばかりが能ではない、身近にもきっと何かがある、私も目の前の冬の原っぱを描いてみた、P10号である。

余談だが興味がある方には小出楢重随筆集(岩波文庫、緑115-1)の一読をお勧めする。下品なのはちょっと、といわれる方には少々目をつむっていただいて、オモシロいこと請け合いである。挿絵も絶品である。




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# by papasanmazan | 2018-02-28 03:47 | 風景画 | Comments(0)

松とブローヴァックの丘



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冬枯れの色の中で松やオリーブなどの常緑の色が特に目立ってくる。そういった自然の色にかこまれた制作には大変に人間的な幸せを感じる。対象となる自然の中に直にイーゼルを据えて絵を描いていくなどということは、あるいは時代遅れで、笑止千万な事柄なのかもしれないが、この地道な手仕事は私には必要不可欠なことである。


F10号のキャンバスにモルモワロンの上から遠くにブローヴァックの丘が見えている風景を描いてみた。手前に形のいい大きな松の木があって、この木の形が以前から好きである。昨年はP10号に同じような主題で制作したものがある。



手前の松と奥に見える丘との距離感を形の変化や色彩の差によって表現していくわけであるが、こういう時によくヴァルールという言葉を使う。ヴァルールが正しいとか的確でないとか、あるいはもっとヴァルールを高めたいとかいうときもあって、なかなか意味のつかみにくい言葉である。



ふつうにはヴァルール、値という単語で、絵画の場合には色価と訳される。それではその色値とはどういうことかということになると、そこにその色があって正しいのかどうか、その色が妙に沈んだり、飛び出したりはしていないか、というように使う人もある。それから色調の明るさや強さに使っている人もある。



実はヴァルールという言葉を完全に使いこなせる人はわりに少ないような気がする。たとえば日本刀を見ていて本当に波紋が見えてくるのには相当経験が必要なのと同じで、絵画作品を見て色彩が良くつかめるのにもかなりの目の訓練が必要である。そして色彩がよく見極められたときにヴァルールの意味が分かってくる、しかもその時に本当にヴァルールのことが理解できている人にその場で指摘してもらうのが一番である。



一度ヴァルールというものが分かれば後はどれでもすぐに見分けられるようになる。昨年の秋の日本での個展のときに,旧知の人たちとの話にヴァルールのについての思いで話が出たときにあらためて実感したヴァルールであった。





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# by papasanmazan | 2018-02-26 21:51 | 風景画 | Comments(2)

木々とキャロンの村




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先日のF20 号の冬の木々と同じ場所で、少し角度を変えてみると、手前の太い木の幹を通して遠くにキャロンの村が見えていた。以前にもこの村は遠望したところを描いていたが、それとはまた違った味わいで、よくまとまっている。これはF3号の大きさにしてみた。


どの絵の制作でもその大きさを選んでいくことが大切であるし、なかなか決まらないこともある。これも経験で、ピタッとした大きさが決まった時はしめたものである。制作の流れが順調になる。選んだ風景に対してあまり大きすぎるキャンバスを選ぶと、何かまのびがしてしまらない、小いさ過ぎると窮屈でやはりシックリといかない。


今回はF3号と、手軽な大きさではあるが、こういう場合でもできるだけ小味な仕上げになりたくはないと思う。何か気が利いていて、人目をひくようなコジャレたような作品もあるあるが、やはり基本的な造形感にのっとった制作をこころがけるべきだろう。




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# by papasanmazan | 2018-02-20 12:51 | 風景画 | Comments(0)

冬のヴァントゥー山





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久しぶりのF30 号の制作である。我が家から二分ほど歩いたところの原っぱの中にイーゼルを立てたのはいいが、とにかく風との戦いである。ミストラルが吹きまくると30号の大きさになるととても描いてはいられない。キャンバスを固定したイーゼルごと吹き倒されてしまうので、制作できる日を選んでいかなくてはならない。


奥のほうに大きなヴァントゥー山が控えているのだが、手前にはいたるところにアーモンドの木が生えており、またさまざまの木立の群れが重なり合っている。それらが視界をさえぎってヴァントゥー山が切れ切れに姿を現してくる。それならばもう少し場所を変えればいいのかもしれないが、実はこういう木々をふくめた風景を描いてみたかったのである。


もう十年以上前からこのような構図を意図して、なんどか冬になるたびに挑戦してみてはいたのだが、とにかく難しかった。途中までは何とか進められるのだが最後まではかなわなかった。木々を含めた風景というよりも木々を透かした風景といったら良いのだろうか。一つ一つの要素としての木々や群れではなく、山も空も原も木々も、全体を一つと感じながら制作してみたかったのである。ほとんど無差別の知覚を働かせながら、それがどういう結果をもたらすのかを自分で試してみたかった。


夏の葉が茂った木々のい重なり合いと山との複合したものも、この透かしたような風景という感覚でもって理屈的には可能なはずである。




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# by papasanmazan | 2018-02-18 19:17 | 風景画 | Comments(2)

冬の野の風景



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昨年の春見つけた少し段々になった畑と農家の構図が気に入って、すぐにも描こうと思ったのだが、その時はすでに若葉が芽生えてきてやがて緑一面になるのが分かっていたので今年の冬まで一年間待っていた。この景色は冬の枯れた色で描きたかった。その風景が安定したのでさっそくP8 号のキャンバスに始めてみた。


背の高い白樺の木が何本かあって、それで垂直性はすぐに得られる。その高さを支える水平の要素が家や畑や道、背景になる山などにあるのだが、モチーフになる自然の中からこちらの要求で選択しながら制作を進めてゆく。晴れた日の枯れた色彩は美しかった。あまり説明的にならない筆さばきの内に制作を終えた。


家内と二人で先週、スペイン、マドリッドのプラド美術館にわずか二泊だけだがベラスケスを観に行ってきた。2013年以来二度目である。前回は作品を見ていくのに焦点が合うまで時間がかかったのだが、今回はすぐに作品がくっきりと壁にはまっているのが掴み取れた。この美術館はスペイン絵画の宝庫でもあるし、その他フラ・アンジェリコ、ラファエロ、ティツィアーノ、リューベンス、デューラー等々名作ぞろいである。出来るだけ満遍なく見ようと心がけて行ったのだが、やはり前回同様、今回も観たのはほとんどベラスケスだけ、というよりもラス・メニナス(宮廷の侍女たち)と皇女マルガリータの二点だけである。


しかし丸一日かけてこの二点だけを見てすっかり満足した。今回で完全にこの二点の画面性が理解できた。この二点の壁面だけは作品が壁と同列にある。これが完全にタブロー性なのである、平面性なのである。他にも沢山あるベラスケスのなかでもこの二点は意味が違っている。大変に貴重な時間で、これほど贅沢な経験はないと満足している。




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# by papasanmazan | 2018-02-09 01:10 | 風景画 | Comments(2)

冬の木々


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冬になると葉を落とした木々の姿が美しく空間に映えてくる。毎年のようにそんな姿を制作しているが、今年もF20号の大きさで油絵にしてみた。今までは木々を通して遠景に家やその他の道具立てになるようなものを取り入れて絵にしていたのだが、今回はまったくそういった飾り立てはなく、まったくの木々の姿だけである。


つまり絵にするという意図ではなく、ほとんどが自由な生成にしたがって、自分の意志というよりももっと違った、何か遠いところを見据えたような気持ちで終始制作してみたのである。説明的な要素もあまりないので、どういう具合に制作が進むのか自分でも不安はあったが、思っていた以上の成果が出てきたようである。


最近よく読んでいるもので、特に老子に魅かれている。若いときから禅の本はよく読んできたが、それが老子を読むのに大変に役立っている。自分というものを立てない、終始一貫その自分のないところを求める、そこに道がある。その道、それを良く掴み取れば全てが上手く行く、何の不安もない道である。


その第二十二章の最後の句、〔誠に全うして之を帰す〕、よく道をわきまえて最後は自然の中にそのまま帰る、といったような解釈でいいと思うが、そのような自然な自分というものを絵にすることが出来れば、といったような意志でこの作品を描いてみた。




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# by papasanmazan | 2018-01-30 01:43 | 風景画 | Comments(4)

ヴナスクの村遠望






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ヴナスクの村をかなり離れたところから見た風景である。季節を変えてこの風景を幾枚かは描いてきたが真冬の色彩がなかなかきれいである。手前にはサクランボウの果樹園が連なって、葉っぱを落とした枝々が赤く広がった色面が魅力的である。これが夏ともなると緑の連続で、色彩的には冬のほうが多彩である。今回はM10号のキャンバスを使った。


制作に関してこのごろ自分ながらに変わったと思うことが一つある。それはほとんど完成というときになると以前はいかにも慎重に筆を運んで、これでようやく完成した、という終わり方をしていたのが、最近は仕上げの段階に近づくにつれだんだんと筆使いが速くなり、割合に細かいところなどにこだわらずに、勢いがついた状態で完成させていくようになって来た。ちょっとはたから見ると慎重さに欠けた感じがするかもしれないが、自分としては制作の始まりのリズム以上の新鮮さが心の中から筆に伝わっていくようで、今は大変に制作が楽しいのである。以前は完成時は気の重いような、息の抜けないような制作だったが、随分変わってきたものである。


余談ではあるが文楽の一つの劇の終わりのあたり、要するにクライマックスのところを段切りという。ここは重要な見せ場であるから実力のある太夫と三味線が勤めるが、そのなかでも最も最後の演奏のところは、これが最後、ということで曲まわしも速くなり、音も派手になってくる。とくに三味線弾きなどには腕の見せ所で、大変にリズミカルになってくる。これが下手な三味線弾きだとまったく盛り上がりに欠いた終わり方になって、全てがだいなしになってしまうのである。これでは観客を満足させるわけにもいかず、昔の大阪の客なんかだと、金かえせ、とくるところである。


この段切りのコツ、これが絵画の制作の終わりにあたって、何とか生かせないかと常々考えていたのである。現在の制作で少し思いが生かせるようになってきた感がある。

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# by papasanmazan | 2018-01-25 01:44 | 風景画 | Comments(2)

彫刻と花


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F12 号のキャンバスにカルポーの彫刻、ふくれっつらと、アトリエに咲いている鉢植えのポインセチアを使って静物画を一枚考えてみた。ふくれっつらを置いてある机の面も利用することにし、上下の動きをつけるために机の前に小さな台を設置して、そこに植木鉢を布とともに構成し、布の模様も使っていくことにする。


それだけではまだ構成が不足しているので、ざくろやレモン、青い小さなビン、白い花瓶なども加えて、ようやく製作が始まった。自分なりに納得の出来る構成が出来るまでは制作に掛からないほうがいいと思う。


個々のもの、たとえばふくれっつらの表情や、ポインセチアの花のかわいさなども大切にはしているのだが、どうしても全体の中の部分として考えてしまうので、時によるとかなり細かく部分の説明に走ることもあるが、しばらく時間をおいて眺めていると、それらの説明部分が上手く表現出来ていても大きく消してしまう結果になることもある。


制作の途中などはそんな悪あがきの連続といっていいようなものである。特にこの作品では彫刻の顔の表情に描きすぎたり、消したりの過程が多くなった。






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# by papasanmazan | 2018-01-22 21:15 | 静物画 | Comments(0)

赤い森の中の岩


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先日もこのブログに投稿した赤い岩の絵と同じ場所で、少し角度を変えて、キャンバスも大きくF25号、縦型に使った構図でもう一枚制作してみた。繰り返し言うことだが、一枚の制作を終えるとその同じような主題でもっと追求してみたくなるのが造形意欲というものかもしれない。この赤い岩などもその表れで、繰り返し自分の感覚を試したい気持ちになる。


岩の組み合わせによる垂直感を考えてみた。そこに木の幹や枝がかみあってきて、表面的には森の中の一情景と見られるのだが、中身は縦に連なってゆく垂直の流れである。岩の体積や重さなどを色彩で現していくのだが、問題はそれよりも縦に連なっていく岩の重なりどころの輪郭線をどのように面に食い込ませていくのか、またどのように線としての独立性を見せていくのか、そのあたりの画面上での色彩を含めての操作が造形感をひきたたせていくわけである。


できるだけそれをダイナミックな状態の画面として残してみたかった。それらを保障するヴァルールとしては満足しているが、少しまだ絵になりすぎているようで、その点には不満が残る。もっと絵としてよりも画面の存在感がほしかった。おそらくまだ自分に甘さがあるのだろう。






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# by papasanmazan | 2018-01-17 17:35 | 風景画 | Comments(2)

白い岩





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赤い森の中の岩も制作の題材に格好だが、石を切り出した後の白い岩も絵心をそそる。久しぶりに大きな白い岩の場所にイーゼルを立てて、冬の寒い中ではあるがF15号のキャンバスに描いた油彩である。絵を描く角度も少し違えば出来上がってくるものも表情がかわってきて、それに筆使いなども以前よりは軽くなってきたのかもしれないが、全体の感じとしては楽な印象になってきているのではないだろうか。


いつものように何枚かの作品を平行して制作しているのだが、最近のものは見た目には軽くて、あまり描き込みもないあっさりしたような製作過程だが、実は描くのがこんなに難しいのかと思わされる位、考えに考えての毎日なのである。文章にするのもまた難しくてかなわない。




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# by papasanmazan | 2018-01-05 20:56 | 風景画 | Comments(6)

冬のヴァントゥー山と白樺林





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芭蕉の発句も難しいが連句となるとなかなかとっつきにくく、大変に好きなのだが時間をかけて少しづつ慣れるようにしている。最近はそれでもかなり面白さが分かってきたようである。そのなかでも芭蕉七部集の幸田露伴の評釈が大変に勉強に役立ってくれる。今秋の一時帰国した折に日本から持ち帰った本のなかにつめていたものである。七部集のそれぞれの名前もいいが、今の季節を踏まえて〔冬の日〕をよく読んでいる。


それを特に意識したわけでもないが冬の日のヴァントゥー山と、手前に広がる白樺の林を構成材料にしてF8号のキャンバスに描いてみた風景画がこれである。いままではなんとなく白樺の木や林などを描く時に硬くなっていた腕が最近はようやく自由さを得てきたようで、軽く、楽しみながら画面に溶け込ませるようになってきた。木の幹の白さにこだわりすぎていたのであろうか,木や林全体を一つの要素に考えていくと急に色面としての役割が強まったようである。


別に読書が自分の仕事の絵画に特別に役立つのかどうかは分からないが、趣味としては音楽を聴くのとともに本を読むのも大変に好きである。




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# by papasanmazan | 2017-12-25 02:29 | 風景画 | Comments(2)

リンゴと湯のみ





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フランスサイズのF2号の大きさに静物を構成してみた。日本ではあまり2号という大きさのキャンバスを使用しないし、またフランスサイズと日本サイズとは若干寸法が違ってくる。それで日本で額縁を調達する時にフランスサイズのキャンバスを用いていると大変面倒なことになる。これは戦前、日本が尺貫法を採用していたのを戦後メートル法に換わって、変わったのはいいとしてかつての実寸をそのままにメートル法に換算したために端数が出てきた、その端数の分がフランスサイズとの誤差になってきて、たいへんややこしいことになるのである。


ともあれこれは3号とサムホールの間の小さな画面である。そこにふたつのリンゴと湯飲み、それに布だけの単純な構成で、出来るだけ実在感のある静物画を目指してみた。実在感といってもモチーフになる対象物の、いわゆる質感や形態などの個々の真実味に迫っていこうというのではなく、画面全体としての存在感、絵そのものが存在しているといったような実在感のことを意図してみたものである。


結果的には単純化がすすんできているようで、あまり表面の美しさなどには目がいかなくなってきた。これはいいことなのかどうか、これからの判断になってくると思う。





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# by papasanmazan | 2017-12-20 04:03 | 小さな絵 | Comments(2)