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シャクヤク

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5月20日から吹き始めたミストラルが今も吹き荒れてとても戸外での風景画は続行できない状態である。外で絵を描くどころか外に出るのも躊躇するくらいの強いミストラルである。天気予報で前もって分かっていたので、庭に咲き始めたシャクヤクを少し切り取って花瓶に挿していたものを、F6号のキャンバスに油彩で写してみた。

何も作品だというわけではない、油彩によるスケッチといっていい程のものである。外のミストラルを尻目に終日この作業にかかってみた。こういった練習めいたもの、手の訓練、眼の訓練を私は大切なものだと思ってきた。作品を残す、ということも勿論画家として常に考えていかねばならないが、常日頃のトレーニングといったもの、画家としてはスケッチなりエボーシュ(粗描き)といったところの訓練めいたものである。

近代美人画の大画家、上村松園のその作品群の、数も質も眼を見張るものがあるが、画帳に残された毛筆によるスケッチも信じられないくらいの量である。しかも懸腕直筆という、手を紙から離した日本画の伝統的な筆の使い方によるものである。日常の画家としての日記のようなものであり、また一つの訓練である。決して作品の下絵だけを目指したものではない、下絵はまた下絵で存在するのである。

たしかサマセット モームだったと思うが、こんなことを読んだことがある、画家というのは才能によるものではない、あれは本能である、と。ご存知のようにモームの月と六ペンスはゴーギャンをモデルにした小説であるし、絵画にも精通して収集もしている。画家のこともよく分かっているはずである。文学者や音楽家とはまた違った能力を感じていたのだろう、それを本能だといってのけている。

先ほどの松園が手当り次第に画帳に描き留めていくのもほとんど本能的なものではないだろうか。もちろん松園自身に克己心があったのには相違ないだろうがそれ以前の何か、描くという本能を感じるのである。こういったことを私は若い頃に読んだ谷崎潤一郎の芸談という本で学んだのである。芸術というよりもまずは芸を磨く、といった考えである。細かいところは省くが、自分としては大変に影響を受けたところである。興味のある方はぜひ実読をおすすめする。

現代はコンピューターひとつで絵画までやってのける時代である。どれもこれも才能がきらめいて見える。音楽家などでも皆才能を全面におしたてたスターが続出し、ピアニストもすぐに指揮者に変貌してゆく。才が才を呼ぶようなものである。こんな時代に芸談などとはいささか時代錯誤、時代逆行もはなはだしいといわれるかもしれない。

しかし自分の学んだものはやはり学んだものである。私にはシャクヤクをスケッチする道をゆっくり押し進めてゆくしかないのである。



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by papasanmazan | 2015-05-22 19:45 | 風景画 | Comments(0)
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