人気ブログランキング | 話題のタグを見る

白い岩とヴァントゥー山 F30(第二段階)

白い岩とヴァントゥー山 F30(第二段階)_c0236929_19583557.jpg


無秩序におかれたような色塊、ほとんど斑点としか思えないような飛び跳ねたタッチ、自分でも混沌とした空間にいるような画面から、ようやく少し制作は進んで形らしいものになってきたようである。よくいろいろな国の神話に、混沌のなかから神や英雄が一つの世界を釣り上げたり、国を創り上げたりする話があるが、こういった人間心理の反映もあるのだろうか。創造の心理とでもいえるのかもしれない、とにかく現象面としては雑然と感じられる経過である。

しかし決してあせることはないのである。集中して仕事を続けていけばおのずと形が現われてくる。それをつかみ取っていけばいいのである。先日もいった、堀辰雄の、文体で支える、そういった言葉がここで必要になってくる。このような制作を持続させていくのに一体、私にはどういうことが必要なのか、どのような言葉であらわせるのだろうか。

私の読んだ限りでは、坂本繁二郎がさかんに、絵には調子が必要であると言っているが、堀辰雄の言う文体は坂本繁二郎の調子に相応すると思う。そしてセザンヌにあってはタンペラマンという言葉を繰り返すのである。タンペラマンというフランス語はふつうには性格、気質といった意味で、ナチュールやキャラクテールなども同義語だろう。もっと精度がたかければエスプリになるかもしれない、しかしセザンヌはさかんにタンペラマンということばをつかっている。タンペラマンがあるのは私だけだ、他の画家はタンペラマンに欠けているのだ、といった風にあれくるったようにつかっている。

おそらくセザンヌのいうタンペラマンにはプロモーション、推進力の意味があるのではないか、実現に向かって推進していく能力、その力を支えていくのがタンペラマンだといっているのではないか、私にはそう思われる。そういったような後世の分析的な見方はいろいろとあるだろうが、セザンヌにとってはタンペラマンと言っておけば充分なのである。



にほんブログ村 美術ブログへ
にほんブログ村
by papasanmazan | 2013-12-31 19:55 | 風景画 | Comments(0)
<< 白い花瓶と赤い布(完成) チェーホフの本(完成) >>