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白い岩とヴァントゥー山 F30(第二段階)

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無秩序におかれたような色塊、ほとんど斑点としか思えないような飛び跳ねたタッチ、自分でも混沌とした空間にいるような画面から、ようやく少し制作は進んで形らしいものになってきたようである。よくいろいろな国の神話に、混沌のなかから神や英雄が一つの世界を釣り上げたり、国を創り上げたりする話があるが、こういった人間心理の反映もあるのだろうか。創造の心理とでもいえるのかもしれない、とにかく現象面としては雑然と感じられる経過である。

しかし決してあせることはないのである。集中して仕事を続けていけばおのずと形が現われてくる。それをつかみ取っていけばいいのである。先日もいった、堀辰雄の、文体で支える、そういった言葉がここで必要になってくる。このような制作を持続させていくのに一体、私にはどういうことが必要なのか、どのような言葉であらわせるのだろうか。

私の読んだ限りでは、坂本繁二郎がさかんに、絵には調子が必要であると言っているが、堀辰雄の言う文体は坂本繁二郎の調子に相応すると思う。そしてセザンヌにあってはタンペラマンという言葉を繰り返すのである。タンペラマンというフランス語はふつうには性格、気質といった意味で、ナチュールやキャラクテールなども同義語だろう。もっと精度がたかければエスプリになるかもしれない、しかしセザンヌはさかんにタンペラマンということばをつかっている。タンペラマンがあるのは私だけだ、他の画家はタンペラマンに欠けているのだ、といった風にあれくるったようにつかっている。

おそらくセザンヌのいうタンペラマンにはプロモーション、推進力の意味があるのではないか、実現に向かって推進していく能力、その力を支えていくのがタンペラマンだといっているのではないか、私にはそう思われる。そういったような後世の分析的な見方はいろいろとあるだろうが、セザンヌにとってはタンペラマンと言っておけば充分なのである。



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by papasanmazan | 2013-12-31 19:55 | 風景画 | Comments(0)

チェーホフの本(完成)

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褐色のテーブルの上にレモン、パイプ、小さな砂糖つぼ、幾枚かのカード、そしてチェーホフ全集の一冊を組み合わせてF3号に描いてみた静物である。背景は暖炉の一部を切り取ったところを画面におさめ、テーブルやパイプなどとともに暗い色調である。確かに暗い色調ではあるが、そのなかに色面の動きを与えてみたかった。寒色の導入もやってみたかった、そしててそれなりに上手くおさまったのではないかと思っている。

絵だとか、画面だとかいってもその程度の発想である。重い色階に対してカードの白やレモン、本の背表紙のピンクをつかって色のぬけを作っていこうとするだけである。別にそこにチェーホフの思想が盛込まれるわけでも、厭世観がただようようなものにしようというような意図があるわけでもない、ただの一つの絵である。それで充分である。観る人が自分なりの意見をもったり、自分なりのイメージをだぶらせるのは全くの自由であるし、大いに結構なことだが、描くほうの人間はただ単に眼を使い、手を使い、頭を使って描いているだけである。そして出来上がってくる画面を注意深く自分で見つめているだけなのである。チェーホフの本は余暇に楽しんでいるだけのことである。

来年の二月にスペインの美術館に行けることになった。もうプラドだけしかない、そしてヴェラスケスだけを空想している。若い時からヴェラスケスはあこがれであった。あの画面には今も言ったところの、ただたんに画家の腕だけがある、そこには何も思わせぶりなものがない、皆無である、そういった質の絵画は徹底してヴェラスケスだけだと思ってきた。このF3号の小さな静物画を描きながらさかんに若い時から考えてきたことを思い出したのである。論語にあるように、時にしてまた習う、楽しからづや。時にしてというのはタイムリーということだそうだ。



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by papasanmazan | 2013-12-27 20:26 | 静物画 | Comments(2)

丘と家(第二段階)

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メタミスという村の一角にある家と、そこから見える丘の風景である。描きはじめから軽いタッチが重なってきているが、そのような全体のなかで物をはっきりとつかみ込んでいきたいという気持ちが強い。ものを両手ではさみつけて、その位置に固定させていくような感じである。

個々の物の描写などにはそれほどとらわれることもなく、画面のなかの互いの物の響き合い、力関係、運動感覚といったようなものが高まってくればいいと思って仕事を続けている。こういった進み具合になってくると一体絵を描いている、といえるのかどうかも疑問である。

しかし個人的には、仕事は以前よりも断然面白くなってきた。なるほど。こういうことをしたかったのだな、と自分を発見したような気持ちになっている。とにかくこのF15号の仕事をはじめ、描きかけのもの、その他これからの新しい計画などを自分でよくみつめなければならない。



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by papasanmazan | 2013-12-24 16:05 | 風景画 | Comments(2)

白い花瓶と赤い布(第二段階)

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かなり描き込んできて、物と物との関係、角度,配置などがそのたびに少しずつ修正が加えられている。特に気をつけているのは赤の占める面積である。赤は赤として主張させていいのだが、それだけが目立つようでは困りものである。画面全体のハーモニーとして考えなければいけない。そういった進行のなかであるいは赤色を弱めたり、他の色を強めたりする場合もでてくる。

ただし一つの絵画としての性格ははっきりとしたものでありたい。さりげない赤とは見せながらも、やはり赤の調子としての画面を創っていきたいのである。



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by papasanmazan | 2013-12-23 21:02 | 静物画 | Comments(2)

大きな木と教会(第二段階)

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先日まで緑を含んでいた葉っぱもすっかり褐色に変わっている大きな木である。そういった変化は自然のなかではあたりまえで、制作もそのあたりはふまえていかなければならない。現象ばかりをおうわけにはいかないのである。

手前の大きな木と奥の教会との距離が問題になる画面ではあるが、そこは色彩の問題でもある。特に物と物との接点をよく理解しながら描いていかなくてはならない。それこそ今いった現象面から離れて、画面のなかでの距離感を表すようにしなければならない。眼だけの問題ではなく頭も活用しなければならない。

この辺りの仕事を支えていくのが先日もこのブログで書いた堀辰雄の言うところの文体なのである。ある意味では芸術家の生命をささえている命綱のようなものである。





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by papasanmazan | 2013-12-17 19:46 | 風景画 | Comments(0)

サン、ディディエの教会(完成)

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マザンから車で十分位のところにサン、ディディエの村がある。村の中央をつらぬく細い道の左右にはプラタナスの大木が規則正しくそびえ、ところどころに地下水をくみ上げている水場がある。その通りの突き当たりに教会の白い建物がたっている。人口は少ないのだろうが活気のある村である。

このあたりは至る所にアーモンドの木があって、そのアーモンドの実を使ったヌガーの直売店がサン、ディディエにある。日本人の観光客がお土産にするのになかなかの人気である。なかには土産に持って帰る前に自分で全部食べてしまって、もう一度買いにいきたいと言ってるような人もいる。日本のヌガーのように歯にネチャつくようなものではなく、サクサクとした食べごこちのお菓子である。

そのサン、ディディエの村を少し離れたところからサムホールのキャンバスに描いてみた。遠くに見えるのはやはりいつものヴァントゥー山の右外れの部分になる。





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by papasanmazan | 2013-12-16 20:07 | 風景画 | Comments(2)

松とヴァントゥー山(第二段階)

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第一段階のときから既に現場で三度制作を続けたのがこの時点の絵である。午前の光を選んで描いている。どのくらいまで進んでいるのだろうか,全体としては悪くないと思う。ヴァルールも整ってきているし,色の配分も穏やかにとけ込んでいる。形もヴァランスも及第だろう。しかし何かが足りない、そればかりが気になってしかたがないのである。

この秋、大阪にいる時に堀辰雄の小説、菜穂子を読んだ。その小説はそれとして,堀辰雄自身がこの小説を書くにあたって小さな説明文を独立して書いていたものがあった。今その本が手元にないのでそのまま伝えられないが、要は自分としては本格的な小説となること、その他筋立てや構成をいろいろと説明しながら、そういった全てのことを進めていくのは自分の文体である、と断っていた。

この文体という言葉に非常に魅かれたのである。何も文章が大切だとか、際立った文章を描こうとかいうのではない、単に文体といっているのである。

そういえばチェーホフとかフローベールなどもよく文体について論じる作家である。フローベールなどはほとんど小説を読むというよりも文体を読む、といった感がある。それほど文体が確固としているようである、たとえ翻訳で読んでいてもそういったところがうかがえる。ためしにその弟子のモーパッサンと読み比べてみればいい、モーパッサンのものには筋の面白さ、多様さ,その他才気は大いに感じるが文体というものはほとんど感じられないのである。

その堀辰雄のいう文体、これに匹敵する画家の言葉はないものだろうか、これが絶えず今の私にはひっかかっているのである、そして現在のこの制作途中の12号の絵に欠けているものは,この文体と同じ意味のものだと思っている。強いていえば絵の性格、画面の性格が足りないのである。この言葉が自分なりにみつかれば制作も少しは楽になるだろうと思っている。



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by papasanmazan | 2013-12-15 20:48 | 風景画 | Comments(0)

大きな木と教会(第一段階)

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木を描くのは好きである。冬の,葉も落ちて裸になった木の幹などもよく描いてきた。一本の木が一人の人間と同じように感じたりもする。そんな目で見ていると自然のあちらこちらにモチーフが存在している。特にモチーフを探しまわるような必要はないが、そういったモチーフをつかって何を表現しようとするのか,そこが大切なところだろうと思う。

そういった意味で存在感がある樹木というものが好きなのである。単にきれいなだけではいけない,もっと存在というところにまで入っていきたいのである。今回は大きな木と,その間の向こうにみえる教会を主題に選んでみた。キャンバスはF20号の大きさである。



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by papasanmazan | 2013-12-14 19:29 | 風景画 | Comments(0)

白い岩とヴァントゥー山 F30(第一段階)

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この夏の終わり頃になって,白い岩とヴァントゥー山を組み合わせた構図のとれる場所をみつけた。まずはF15号で試みてみた。制作として充分に密度のあるモチーフである。その広がりのある眺望からスケールの大きな画面が期待出来るのではないか、ということで今度はF30号に再び取り組んでみた。F15号のときより少し上の位置から、左右の幅ももう少し広めた形を選んで描き始めている。

今年の日本での個展を終えた後の制作としては既に六枚のキャンバスをあれこれと始めているが、いまのところすべて上手く滑り出している感がある。筆の運びも以前より軽いものになってきたようで自分自身うれしいかぎりである。

しかしあくまで制作は慎重にしなければならない。とんだ落とし穴が待っている場合が多いのも経験で少しは分かっているつもりである。



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by papasanmazan | 2013-12-11 22:00 | 風景画 | Comments(0)

丘と家(第一段階)

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今年の五月頃、メタミスという村に毎日のように丘の風景を描きにいった。その時はP20号を仕上げたのだが、その制作の最後の頃に手前の家で、非常に形のいい家をみつけたのである。たぶん日本での個展をおえて帰仏したらすぐにこの家と、もういちど丘とを組み合わせたものが描きたくなるだろうと日本にいるときから予想していた。あんにたがわずさっそくF15号に始めてみているのがこの絵である。

丘の柔らかな丸みに対して家の直線的な構成を際立たせてみたいのがねらいである。制作の出だしは出来るだけ軽く、軽く、そして伸びやかさを大切にしたいところである。しぜんマチエールもうすいものになる。色彩も原色,混色、重色、など様々取入れていくが、制作の実際としてはどこからどこまでとは一口ではいいにくいものである。ただし色の濁りだけは避けていきたいものである。その一つの判断としてヴァルールという考え方がある。要は色のあわせ方、組み合わせ方の生きた実践のことである。

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by papasanmazan | 2013-12-09 19:50 | 風景画 | Comments(0)